The Story of hiromichiito

ヒロミチイト物語

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1971年( 昭和46年)6月23日 午前3時10分、三重県に、伊藤家の長男として生を受ける。そして、弘通(ひろみち)という名前を授かる。この「弘通」という名前には、人生というモノを道とするならば、広い道をどうどうと胸を張って歩んで行って欲しいという、両親の深い思いが込められているそうです。両親の愛情に感謝です。人生のメインストリートを歩んでいるのかどうかは分かりませんが、なんとか人の道はまだ踏み外していないつもりです。

名前の由来ですが、広い道を歩くと言う事で、「広道」という名前になったのですが、そのままの漢字で「広道」というのは、名字と合わせたときに字画が良くないらしく、どこかの偉いお坊さんに相談して「弘通」に変更したそうです。お坊さんに決めて頂いた名前だし、これも何かの縁ですので、人に自分の名前の漢字を説明する時は、弘法大師の「弘」に、交通の「通」です、と説明する様にしています。名前を付ける際、「弘通」の他に、いくつか候補に挙っていたそうです。最期まで「弘通」と共に残っていた名前の候補が、「章史-しょうじ」という名前らしいのですが、「弘通」の方が字画が良いとの事で「弘通」に決定したそうです。ちなみに、僕には一つ年下の弟がいるのですけれど、偶然でしょうか?姓は「伊藤」、名は「章史」といいます。僕のお下がりで悪いね、章史君よ。残り物には福があるってもんだよ。今、彼は結婚をし、娘も生まれ幸せの真っ只中です。本当は、そっちの方が良かったのかもなw

弟の話が出たので、家族の事を少し、まず父の事から。僕達が小さい頃は、父とは、あまりコミュニケーションが無かったですね。というのも、彼は、寝る間も惜しんで、朝から晩まで、一生懸命家族のために働いてくれたから、僕ら子供達とは遊ぶ時間が無かったのでしょうね。母は、「お父さんはね、麻雀ばっかりしてなかなか家に帰ってこなかった」と言ってますけれど(笑)そんな寝る間も惜しんで一生懸命働いてくれた父のお陰で、僕は大学まで行かせて貰い、その上、絵の勉強までさせて貰いました。残念ながら、もう父はおりません。2011年8月9日に病気の為亡くなりました。亡くなる少し前、「俺の人生は本当に素晴らしかった。何一つ、悔いもない。だからこれ以上、長生きもしなくていい。今は看病してくれてる母さんを少しでも早く楽にさせてあげたい。」と、僕が看病するため、実家に帰って二人きりになった時に、ポツリとそう言っていました。最期の最期まで家族想いの格好いい人でした。そんな父に、沢山ではないですけれど、生前いくつか仕事で描いた絵を見せることが出来て良かったです。今もどこかで、きっと見てくれていると思って、毎日気を引き締めて描いているつもりです。

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そして、その父が最期まで心配していた母は、現在もとても元気に暮らしています。母は昔から花が大好きで、家の庭は一年中花が咲き乱れています。母が、あまりにも花が好きなので、「どうして、そんなに花が好きなの?花がいい匂いっていうのは分かるけれどさ、いい匂いっていうなら、カレーとか、ハンバーグの方がもっといいにおいやん。なんで花なん?」と小さかった僕が尋ねると「花をみて、綺麗だなって思えるという事は、自分の中に、心のゆとりがまだあるんだなって、感じられるからなの。だから好きなのよ」と言っていましたね。その言葉に僕は、とても衝撃を受けました。そのお陰で、今、絵を描いているような気もします。人間生きていく上で、食べる物、住む所、着るもの、その衣食住はとても大事です。でも、それに関係ない「無駄」とも言える部分が、実は一番人間らしい感情なのではないかと母の話を聞いて、気付かされました。無駄を楽しむ事が出来るのは人間の特権なんですよね。不景気になれば一番最初に切り捨てられるのが、僕達の職業です。ですから、僕達が仕事をしている内は社会に心のゆとりがあるのだろうと思います。というわけで社会の為、世界の心の平和の為に仕事を下さい(笑)

もう一つ母に影響を受けたことがあります。それは、現実の受け止め方ですね。どんなに慎重に生きていても、不幸を避ける準備していても、必ず嫌なことは起こるものです。その事実をどう受け取るかで、その後の人生は大きく変わるんじゃないかなと僕は信じています。母はもの凄く、ポジティブ・シンキングで、僕が遊んで怪我をして、足から血をドバドバ流して泣いていても、「あんた、良かったなぁ、このぐらいですんで、骨も折れてへんし、頭も打ってへんし、ついとるやんか」と笑顔で治療してくれるのです。これは、なかなか凄いと思います。それを聞いた僕も同じ血をひいているので、単純に「僕、めっちゃ、ラッキーやん!」って血だらけでも思えるようになったのです(笑)起こってしまった現実は変わらないわけだから、それをどう受け取って、次の一歩をどう踏み出すかが、明るい未来に繋げるためにはとても重要ですよね。「泣きっ面に蜂」といいますし、くよくよしてたらもっと悪いことを引き寄せるかもしれない、また「笑う門には福来たる」ともいいますよね。嘘でも笑っていれば、自分の周りの環境が変わって、助けてくれる人が現れるかもしれません。その様な考え方を教わったことで、僕は随分助かっています。危機管理能力がないと言われればそれまでなんですが(笑)世の中には、色々な境遇の方がいますし、この考え方がすべての現実に当てはまるわけもありません。ただ、僕みたいに、萎縮すると何もできなくなってしまう性格の人には有効的で、ちょうどいいみたいです。だから、今日も笑って過ごそうと思います。福よ来い!

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家族の話に戻ります、僕には姉と弟がいます。姉がひとつ歳上で、弟が一つ歳下です。そうです、僕は年子の真ん中という、とても切ないポディションに生まれて来たのです。僕の天下は弟が生まれるまでの11ヶ月間でした。それも赤ちゃんなので、その期間は憶えていない。二人とも、今は結婚して、僕には、3人の甥っ子と、3人の姪っ子がいます。姉ちゃんの所の甥っ子は、なんと僕等と同じく年子です。血は争えませんね。

 

さて、話を小学生時代に戻します。当時、僕の友人達の殆どが書道教室やそろばん塾に通っていました。(僕らはそろばん屋、習字屋と呼んでいました。)水泳教室や、サッカーの練習のあと、みんなはそろばん屋や習字屋に行ってしまう。ずっと友達と一緒に居たかったので、僕も習字屋やそろばん屋に通うようになりました。しかし、もともと遊び相手を求めて通う事にした習い事ですから、当然、楽しいはずもなく、習字屋では漫画を書き、ソロバンが刀として使われても、計算に使われる事はありませんでした。そしてある日、ソロバン屋のおばあちゃん(先生)が家までやってきて、「頼むから辞めてくれ」と言われる。僕と弟は、まとめて追い出されました。しばらくして、習字屋の先生もやってきて、こちらも兄弟揃ってクビになりました。とにかく、もの凄く落ち着きの無いうるさい兄弟だったのです。中学生になっても、落ち着きの無さは相変わらずでした。今はもう亡くなってしまった、大好きな祖父には、その頃でも「チョロ松」と呼ばれるほど寝るとき以外は一日中チョロチョロしてました。最近になり、自分が小麦粉アレルギーであることが判明。多分、僕が落ち着きがないのは、このアレルギーが大きな原因の一つであると考えています。僕は病気だったんですね。なんでも、小麦粉アレルギー患者が小麦粉を接収すると、行動に落ち着きがなくなると、ニューズウィークの記事で読みました。だから、僕を大目に見てください(笑)

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中学生になって、僕の人生を変える大きな事件がありました。Rolling Stonesをはじめとするロックンロールの洗礼を受けたのです。それはある日、友人が「これ聞いた事ある?めちゃかっこええで」とストーンズのサティスファクションを聞かせてくれたんです。たしか、それはラジオ番組を録音したカセットテープでしたね。それからは、勉強などそっちのけでロックに夢中になりました。それまでも、勉強はずっとそっちのけだったのですけど。中学三年生の時、初めてギターを買いました。フェンダージャパンのテレキャスターです。たしか、値段は55,000円でしたね。その時持っていたお年玉では足りなかったので、祖父に足りない分を出して貰いました。これは、弟には内緒です。亡くなった祖父の思い出と共に、今でもそのギターは大事に持っています。高校にはいると、サッカー部に入部するものの、諸事情(実に下らない理由)で退部になる。校内の廊下でふらふらしている所を、運悪くレスリング部の先生の目にとまりアマレスをやるはめになりました。小柄な割には筋肉質だったので、力技で三重県で3位に入ってしまうこともありました。

 

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大学に入ると、昔から好きだった絵を本格的に描き始めました。誰に見せたいわけでもなく、ただ描きたいという衝動だけで始めました。大学を卒業して2年後、San Diegoで約1年半の間、英語を勉強をし、その後、San FranciscoのAcademy of Art Universityの大学院にて、イラストレーションの基礎から理論、そして、いろいろな課題や画材を使って様々な技術を学びました。そこでは、幸運にも、Mark English 氏や、今は亡き、サノカズヒコ氏など、素晴らしいイラストレーターの講義を受ける事も出来ました。在学中、サノ先生には本当に良くして頂きました。先生の大好きだったクラシックやジャズのアルバムリスト作って下さったり、お宅にも招待して下さるほど仲良くして頂き、本当に幸せでした。帰国時には、日本でも頑張るんだよと、お食事にも招待して下さいました。先生が個展のために、日本に凱旋帰国された際も、声もかけて下さいました。こんな僕のことを、頭の片隅にでも覚えてくださっていて、僕は本当に幸せでした。本当に優しくて、素敵で大好きな先生でした。

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サノ先生は、これからだという時に、ご病気に倒れ、さぞかし残念だった事と思います。僕に出来る事は、先生に教わった事を、自分なりに理解し、そしてそれを伝えていく事なのかなと思っております。現在、縁あって、栃木県宇都宮市の文星芸術大学でイラストレーションの講師を年に何回かさせて頂いております。その時には、教わった技術は勿論ですが、絵に対しての心構えなど、出し惜しみせず全て生徒に話しています。ですから、先生は今でもいろんな人の心の中で生き続けているという事になりますよね。学校を卒業して、僕がアメリカから日本に帰る時、先生がかけて下さった言葉が忘れられません。

「伊藤君、今から頑張ろうとしてる君にこんな事を言いたく無いのだけれど、もしかしたら、日本に帰って、絵の職業に就きたくても、上手く行かないかもしれない。でも職業として絵を描かないとしても、絵を描く事を決して辞めないで欲しいんだ。絵を描くと言う事は、仕事以前に、僕らそのものなんだもの、だから続けて欲しいんだ。」

そう仰って下さいました。その言葉のお陰で、僕は余計に火が付いて何が何でも絵を職業にしてやるぞと、今までも頑張っています。この人生で、サノ先生に出会えて僕は本当に幸せです。絵のことはもちろん、その他にも考え方や、物事の捉え方など、色々なことを気づかせて頂きました。本当に感謝してもしきれません。先生の教え子として、はずかしくない様、毎日精進して絵に向き合っていこうと思っております。サノ先生、本当にありがとうございました。

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留学時代には、勉強以外でもエキサイティングな事が沢山ありました。それは、サンフランシスコ市内でストーンズのメンバー全員に遭遇し、メンバーのロン・ウッドと握手まですることが出来た事です。2メートルぐらいの近距離からストーンズのメンバーを見れるなんて、本当に、夢の様なひとときでした。信じられないことは、それだけでは終わりませんでした。僕のヒーロー、トム・ウェイツのライブを見る事が出来たのです。

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ライブ時には、彼のマネージャー経由ではあるけど、彼の為に描いた絵を渡すことも出来ました。マネージャーさんが翌日教えてくれたんですけど、トム・ウェイツは気に入ってくれて、そのまま家に持って帰ってくれたそうです。嬉しくて、その夜は眠れませんでした。夢や、想いは、持ち続けているだけでも、叶う確率は上がるんだなぁって体で感じました。そして、彼らに会う事ができて、それまでの人生の答え合わせが出来た気がしました。ここまでは、これで良かったのだと、また前だけ向いて歩いて行く気持ちになれました。

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その後、大学を卒業し帰国。帰国して一年後に上京し、憧れのイラストレーター、木内達朗氏に師事しました。その当時は、本名の伊藤弘通という明記で仕事を始めましたが、よく他の方と間違えられたので、カタカナのイトウヒロミチに変更したのですが、この名前もいまいちインパクトが無いので、また改名する事になりました。何にしようかと、色々考えているうちに、留学時代のエピソードを思い出しました。サンディエゴにいた頃に、友人で同居人だったスイス人の女の子達が、ある日、「What is your last name?ーあなたの名字は何ていうの?」と、尋ねてきました。僕が「My last name is ito. Hiromichi Itoー僕の名字はいとうだよ、hiromichi Itoだよ。」と応えた。すると、突然、彼女たち大笑いし始めましたのです。どうして笑うのか分からなくて、その理由を尋ねてみました。彼女たちは、イタリア語を話すのですけれど、イタリア語では、小さな子供達に「〜ちゃん、〜くん」というのに、男の子なら「ito」女の子なら、「ita」を名前の語尾に付け足すらしいです。ひろみ(hiromi)という名前を例にとって説明しますね。もし、男の子なら「hiromitoーヒロミート」で、「ひろみくん」、もし、女の子なら、「hiromitaーヒロミータ」で「ひろみちゃん」となるんです。僕は、男で小柄でおまけに童顔でしょ、その僕の名字が伊藤「Ito」だったものだから、「あなたにこれ以上ピッタリな名前はないのよ」と笑ったらしいのです。まぁ、太ったアメリカ人の名前が「デーブ」みたいなノリですかね。それ以来、彼女たちはしばらく僕の頃を「ヒロミチート」と呼び始めたのです。

このエピソードを、木内さんに話した所、「ヒロミチイトというネーミングは傑作だよ。」と仰って下さいました。ネーミング名人の師匠が言うのだから間違いない。僕はその場で、「ヒロミチイト」で仕事をする事を決めました。表記では、ヒロミチートより、ヒロミチイトの方がインパクトはあると言う事で、日本語表記の時は、「ヒロミチイト」、英語表記では、名前と名字をくっつけて「hiromichiito」としました。その名前のおかげか、少しずつ仕事も頂けるようになってきましたし、名前も一発で覚えて下さるようになりました。なずけ親の木内さん、そして、バーバラ、クレア、そして両親に感謝ですね。

その後、師匠が、「ヒロミチイトはペンネームとしても、見た感じも凄く良いけど、呼ぶ時は少し長いから、これからはミチイトと呼ぶ事にするよ」とおっしゃって下さり、現在では師匠にはそう呼ばれています。

その影響か、最近では周りの方にはミチイトと呼ばれています。というわけで、ここまでが僕の人生のダイジェストでした。長い長い、駄文を読んでくださってどうもありがとうございます。若輩者の私ですが、どうぞこれからもヒロミチイトを宜しくお願い致します。

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写真は僕の幼少期の写真です。そして、真ん中あたりにある僕と一緒に写っている外国人は、あの伝説のイラストレーターMark English氏です。学校で授業を受けた際に撮ってもらいました。その下はサノカズヒコ先生とアカデミーの教室での一枚です。毎週金曜日、パウエルの教室で先生にお会い出来るのがどんなに楽しみだったことか。先生、今も絵を描いています!先生の言葉を胸に、いつも絵に対して誠実に向き合っております。

そして、最後の写真は、Sonic YouthのThurston Moore氏です。レコード・コレクターズの打ち合わせに行く途中、神保町の本屋さんでばったり会いました。日本語がわからず困っていたようなので、本屋さんとの通訳を少しした後、写真をとってもらいました。めちゃくちゃフレンドリーでいい人でした!僕は「出会い運」だけは人並み以上に持っている自信があります。今日はダレに会うのかな?